

ボルドーを決定づけた17世紀ー2
2014-12-19

1453年に、それまでイングランド領だったボルドー地方はフランスに奪還された。そして、1600年頃のボルドーはフランス領で、当時の国王はアンリⅣ世である。アンリⅣ世はオランダからConrad Gaussenを呼んで、1599年から現在のメドックの干拓を始めた。
■ 湿地をぶどう園に変身させる
干拓が行われる前のメドックやオー・メドックは湿地だった。そして段階をふんで干拓が進められ、広大な農地が生まれた。
ブルゴーニュにしても、シャンパーニュにしても、ぶどうが植わっているのはまず斜面だし、斜面だからこそ太陽の恩恵が増幅される。対してメドックはどうたろう? 元々湿地だったところを干拓した平らな土地? そんなところで育ったぶどうから良いワインが出来るのかね?
意地悪な人間でなくても、そんな疑問を抱くであろうことは想像がつく。
オランダ人もそれを危惧しただろうし、母国での経験もあったのだろう。彼らはテロワールに興味を持ち、独特のぶどう品種との融合を図ったという。
■ ウンチクは必然から生まれた?
これは私の想像だけれど、新参の土地だからこそ、努力もウンチクも必要だったのではないだろうか? 正当化し、有難いものと思ってもらうためのウンチクである。
ここの土壌は○○と△△で、なんたらかんたら・・・・。そして立派なシャトーを建て、買い付けに来た商人を接待したり、PRしたりと。
1855年のパリ万博時の格付けだってこの土地のワインを少しでも高く、少しでも多く世界に売り出すための大作戦だったわけ。(すっごい頑張ったんだねえ)
干拓と前に述べたアルノーⅢ世の功績は、現在のボルドーを決定づけたばかりか、現在ワインを語る時に当たり前のように付いて回るテロワールだの格付けだの、何やかやにも多大な影響を与えたようだ。
ちなみに、広義のメドック地域にあるシャトー・マルゴー等の格付け第1級は、元々湿地の中に島のようにあった丘だそうだ。
(写真は、メドック・ワインの公式サイトより)